七十二候は、「水泉動(しみずあたたかをふくむ)」です。漢字だけではわかりにくいですが、この読みならばなんとなくわかる感じです。地中で凍った泉の水が溶けて動き出す頃、だそうです。しかし、毎日寒い日が続き、これからが冬本番のような気がしますが。「水車」は凍り付かず回っており(写真:上)、小屋の中ではその回転運動を上下運動に変えて”杵”が”臼”を突いています(写真:下)。
例年より遅いようですが、少しづつ”冬の花”が咲き始めています。「上総の農家」の「ソシンロウバイ」(写真:上)「スイセン」(写真:下左)「コセリバオウレン」(写真:下中)と「風土記の丘資料館」近くの「ロウバイ」の状況です。
「農家」では、秋に畑から”根っこごと”抜いて乾燥させていた「大豆」(写真:上左の中央)の脱穀作業です。 ”豆のさや(鞘)”は、夏に「枝豆」を食べた時には”緑色のやわらかいさや”でしたが、成熟して”カラカラ”に乾燥した後は”茶色でとても固いさや”になっています。「上総の農家」(写真:上左)「下総の農家」(写真:上右)では、”杵”や”棒”で”固いさや”を割って”豆”を取り出していますが(写真:上)(「クルリ棒」と呼ばれる、”叩く”だけではなく”回転力”を利用した道具なども使います)、これだと”豆”が飛び散り”豆”を一粒一粒づつ集めるのが大変です。そこで登場するのが、脱穀した「米」からゴミを取る際にも使用した「唐箕(とうみ)」です。大きな枝や殻(さや)などを取って、送風している「唐箕」に投入します(写真:中左)。すると、軽い”ゴミ”は珠面から飛ばされ、重い”ゴミ”は左側に落ち、”豆”が右側から出てきます(写真:中右)。さらに、”豆”を選別して粒を揃えます(写真:下左)。「笊(ざる)」には、「大豆」がきれいに揃いました。来年も、おいしい「枝豆」を楽しみにしています。おっと、その前に「節分」の「豆まき」がありますね。
「上総の農家」では、縄をなっていました。「縄」は、いろいろな使い道があります。「わら」は、やわらかく、加工がしやすく、「稲」の収穫でまとまって量が確保できたので、”米をとったあとの稲わら”を捨てないで”再資源化”して「衣食住」などあらゆることに利用してきました。「衣」では「蓑(みの)」「草履(ぞうり)」、「食」では「米俵」「鍋敷き」、「住」では「屋根材」や「壁の補強材」などにも使われました。現代社会に求められる「エコ」の実践ですね。
「下総の農家」では「むしろ織り」の実演です。「わら(藁)」を使った「むしろ織り」は、江戸時代になると「むしろ編機」が作られ、農家の副業として発達しました。まず、「むしろ編機」に”経紐”になる”細縄”をセットし、”わら”を5本くらいづつを左右から交互に入れ(写真:上)、その都度”細縄”が通された”可動式の重い棒”で、”わら”を押さえながら織り込んでいきます(写真:下)。「機織り」の「おさ(筬)」ですね。
「古地図を読み解く」① 「風土記の丘資料館」第3展示室では、トピックス展「古地図を読み解く-千葉の陸運・水運-」を開催中です。江戸時代、”北総地方”は「江戸」に近く、「成田詣」「三社詣」などで気軽に訪れることができる観光地となりました。「江戸時代の観光と街道」「古地図に見る千葉」のコーナーでは、”古地図”に描かれた交通路などを紹介するとともに、観光ブック的な「利根川図志」や「成田詣にみる陸運」「鉄道と成田周辺の変化」なども紹介しています(写真:上)。展示室の奥の3枚の絵(図)は、「利根川図志」に描かれた「海獺(あしか)の図」「海獺島を望遠鏡で見たる図」「ツクマヒ図」です(写真:下)。
「古地図を読み解く」② こちらは、「三社詣にみる水運」のコーナーです。徳川家康の「利根川の東遷」により、「利根川」と「江戸川」を利用することで、遭難する危険の多かった”房州沖”を航海しなくても”太平洋”から”江戸”に船で行くことができるようになりました。その結果、「利根水運」を利用して多くの荷物が江戸に運ばれ、流域には「佐原河岸」「木下河岸」などの「河岸」も発達しました。また、同時に「三社詣」に、「陸運」だけではなく「利根水運」を利用する江戸庶民もいました。
「古地図を読み解く」③ 「房総のむら」では、平成7年から県内の”昔の建物や町並み”が残る地域を見学する「町並み探検隊」を実施してきました。当然、”北総”に位置する「房総のむら」ですので、”佐倉””成田””佐原”などの”北総”地域が多いわけですが、”野田””我孫子””浦安””木下”など「利根水運」に関連した”町並み”も見てきました。平成27年には「北総四都市江戸紀行」が「日本遺産」に認定されましたが、まさに今回展示の”陸運・水運”による”物流””江戸文化の伝播””庶民の小旅行”などがその原点です。
「安房の農家」の”茅葺屋根”の”葺き替え”工事も進んできました。”茅葺”といっても”茅”という植物はなく、「ススキ」「チガヤ」「ヨシ」などの屋根を葺く”草”の総称です。今回の”葺き替え”は、「主屋」の正面と右側(南・東面)の表層の”茅”の交換と、裏面と左側(北・西面)(写真:中右=足場となる丸太が付けられている)の”差し茅”です。まず、屋根の一番上の”棟”が取り除かれました。千葉県では”上総や安房地方”で多く使用されるという、”棟”の両端の逆U字形の”マクラ”も外されました(写真:上左)。”茅屋根の軒先”を下から見上げると、”茅屋根”が1種類の”茅”で葺かれているのではないことがわかると思います(写真:上右)。今回は、この写真の一番上(表層)の”茅”を替えます(表層の茅を剥がしたところ(写真:上中))。古い表層の”茅”が取り除かれた屋根(写真:中左)に”茅”を並べ、一段が終わると「押し鉾竹(おしぼこたけ)」で押えて上に進みます。「押し鉾竹」で押えるためには、”縄”で”建物の竹組”と連結させなければなりませんが、それが写真下です。先端の穴に”縄”を通した”針のおばけ”のような竹棒を屋根の外側から差し込んで(写真:下左)、”ぶ厚い茅屋根”に”縄”を通し内側で竹組に絡ませ(写真:下中)、”縄”を再び茅屋根の外に戻し”茅”を屋根に押し付けるようにして「押し鉾竹」にしっかり結びます。屋根裏を見ると、今回改修した”新しい縄”がわかると思います(写真:下右)。この連続で、下から上に”茅”を葺き上げていきます。なお、”茅葺”には”縄”しか使いません。
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